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 研 究 内 容


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父母よありがとう 齊藤信夫「里の秋」 2012/10/31(Tue)
  思えば、昭和12年それまで長男として育った父は伊那富の実家の跡を継ぎ農耕用牛を飼い、農家の後継ぎになろうと頑張っていました。山を開墾して作付け面積を増やしたり、農作物の産地直送を考えたり、村の先頭に立ち働いたそうです。

 上伊那農業高校の出身であり、農業の若手として新規事業等を考えたのでした。母も一生懸命協力しました。

 しかし、父にも苦難の時がやって来ました。盧溝橋爆破事件に始まる支那事変勃発にともない招集令状が(赤紙)来て中国の河北省・石家荘に出征しました。
 
 最前線で部隊を指揮したため中国兵に狙撃されて肩と足に貫通銃創の重傷を負いました。この話は母が良く語りました。
 
 内地に帰還して治療に当たり,温泉療法が効果あると聞き、温泉に療養に行ったようです。
 
 このまま、寒い信州で農業も出来なければ生活出来ないと、松本連隊にお願いし、東京板橋の軍需工場に寮の管理人として勤める事になり、祖父母を実家に残し家族全員東京に移り住みました。
 
  軍需工場には外国人等多数の工員さんが宿泊していましたが、負傷した父に勤務地が見つかり私達家族はほんとに幸せでした。
 
  昭和19年東京の空襲が激しくなり、家族八名は信州の伊那富の実家に疎開することになりました。
 
  私達子供は母と信州に帰りましたが、父は山梨の下部温泉に療養中で二度目の招集令状(赤紙)が届きました。
  
  私は四歳で父の顔も覚えていませんが、父は再びインドネシアのスマトラ島へ輸送船に乗り出征しました。
  
 父の戦地での空白の日々、私の記憶では四歳半の私に母が毎晩聞くことがありました。「お父ちゃんは元気で帰ってくるかね。」何百回と繰り返し私の耳元でささやく母の声です。
 私は「元気で帰えるよ、間違いないよ。」といつも答えました。
 「どうしてそんなに聞くの」ある時母に問うと「子供の言う事は本当に当たるからね」母は真剣に答えました。
       
        「里の秋」  第3番
 
       さよならさよなら 椰子(やし)の島
  
       お舟にゆられて 帰られる
 
       ああ 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
  
       今夜も 母さんと 祈ります


  齋藤信夫作詩 海沼実作曲の「里の秋」はまさに戦地のお父さんの帰りを待つ、妻と子の心の歌です。
 昭和20年12月24日第一回の復員船が,浦賀港に入港のその日にNHKラジオ放送で川田正子さんが初めて歌ったそうですが、全国からNHKに問い合わせが殺到したそうです。何度聞いてもこの曲は涙が出ます。
 
 戦時中に作詩した三番及び四番を齋藤信夫はこの日に漸く新たな三番に書き換えてNHKに届けたそうです。前の歌詞は戦争に協力する歌詞だったのです。(齋藤信夫は千葉県の先生でした)
 
 題名も「星月夜」から「里の秋」へと変わりました。

  昭和21年5月私の父は突然、復員船でレンバン島の捕虜生活から解放され帰ってきました。
  お土産はアルミの弁当箱3個と帽子だけでした。故郷にたどり着いた父は疲労でしばらく休んでいたようです。
  傷痍軍人なのに良く帰ってきて下さいました。母も
どんなにか嬉しかったことでしょう。

その後父は川岸中学校に復職しました。

  私の母は隣村の川岸村からお嫁に来ました。父が川岸の青年学校の教師で縁が出来たそうです。
 
  今でも母に大変感謝する事があります。母は気分良いと諏訪清陵高校の校歌を歌って子供達に聞かせました。(日本一長い校歌で有名)農作業の合間にです。第T高等学校、第三高等学校寮歌も良く聞きました。歌うことが大好きでした。そのあと必ず言うのは

 「高校生になったら諏訪の学校に行くんだよ、それには勉強しないと駄目なの。」
 「一番にならないと諏訪の高校へは行けませんよ。」
  大きな諏訪湖を一度も見たことのない小さな子供達に  第1校歌から第2校歌まで全部歌い聞かせます。
  まさに「東に高きは子守歌だったのでしょう。」
  
  私の兄弟で男は五人全員が何時覚えたのか知らないが、母の「校歌独唱」のお蔭で諏訪清陵高校に入学出来ました。
 
時代は移り変わり、諏訪清陵高校の校歌も歌えない後輩がいると同窓会会報で知り大変残念です。
  
 私達の辰野中学校は交通の便が良かったのか、伊那北高校、まれに松本深志高校にも進学しました。
 
 辰野中学校の生徒が一番進学したい高校は諏訪清陵高校となるように六十年前の構図に早く戻ってほしい。

 その為に私達が協力できる事は後輩の為、諏訪清陵高校の為に積極的に協力したい。個人の力は小さくも皆が協力すれば大きな力となり、希望が実現できます。この夢実現の為生涯現役で頑張る所存です。
  現状では優秀な生徒は山梨の甲陵高校に進学する。この現実を私達同窓生は無視できるのか、「過去の栄光を流れ星にしてはならない。」

山武市伊藤左千夫記念館に電話して齊藤信夫の父「三樹」は太平洋戦争で出征されたでしょうが、無事帰還しましたかと問いましたら、その心配は無用ですと、日本国民の気持ちを考えて、「里の秋」三番は作詩されたそうです。
 私のホームページに問い合わせされた方はご安心ください。年齢的にも齊藤信夫様の父は太平洋戦争では出征していないそうです。

 「akoの革工芸」と検索して家内の作品ご高覧願います。




尖閣諸島は日本の領土だ 2012/10/16(Thu)
海ゆかば水漬く屍 

山ゆかば草むす屍 

大君の邊にこそ死なめ

かえりみはせじ (大友家持の詩)
 父が時々懐かしく歌いました。

 私達は平和な時代に生まれ育ちましたが、これからは
日本が独立国を維持するには
 米国一辺倒では暮らしていけない時代に入ります。
中国の軍艦が尖閣諸島周辺を常に横行するでしょう。
防衛力増強を真剣に考える総理の出現が欠かせません。
 国民一人一人が国防意識を持つようにしないと国は滅ぼされる。
 戦後の日本歴史教育は近代史を国民に教えてきませんでしたので、(文科省の方針と読んだ記憶があります)
 つい、15年前まで、私は日本海軍の発祥の地が東京・築地にあることも知らなかったのです。
 あの日露戦争で活躍した海軍の
兵士たちの教育は「築地」での教育から始まったのです。
 「靖国神社」と共に「築地の海軍兵学校の跡地」を
参拝する日本人が増える時代が早く訪れるように秘かに期待致します。
 
 国立がんセンターには海軍の病院がありました。
 現在海上保安庁の有る建物は海軍兵学校の校舎があった所か?
 築地は、幕末の勝海舟の海軍操練所、後の海軍兵学寮と続く日本防衛の要の地です。

 築地は市場の移転が話題となっていますが、実はこの築地から多くの優秀な戦前の指導者が育ったことを私達は忘れてはいけません。もう一度歴史を振り返る時がもう来ています。
 


諏訪清陵高校・旧模型校舎完成 2012/9/18(Wed)
諏訪清陵の旧校舎が甦りました。東京清陵会本年の総会開催通知の中にパンフレットが入って皆様のお手元に届きます。
 故郷の高校を訪ねても、姿は無し、時折夢の中に現れる学校生活においても、校舎の面影は遠い記憶の彼方に消えてしまっていたのですが、第78回生の市村高彦様及び第79回生の丸山重久様の約1年を要しての校舎模型が完成致しました。
 従来は校歌を歌う事により、年齢を超えて心が通じ合う友に慣れましたが、今後はこの校舎の模型を眺めながら同窓生が談笑する機会が増えると、直ぐに年代を超えて自分たちの清陵生活がよみがえり共通の話題で「花を咲かせることが出来ることと思います。」
 何と素晴らしいアイデアが生まれたものかと模型校舎を見て感激してしまいました。
 どうか、多くの同窓生が注文して「清陵の思いでの花」をあちらこちらに咲かせましょうよ。
 お二人は高校の時に模型研究会に入っていたとも聞きました。
 私達昭和30年代の卒業生には天文台が無いことが残念ですが、79回生の時は天文台は石垣の上のコンパ室に移転
していたのだそうです。最初からなかなか完璧に完成しませんですよね。でも、これは驚きです。感謝!感謝です。
総会も従来の慣習から脱皮して新しい総会に変化していく事を期待しています。
 例えば、土曜日の開催、女性の多くの参加者、在校生の招待等の企画に変貌していくべきです。
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諏訪清陵高校の現状 2012/8/20(Sun)
 諏訪清陵高校の学力の低下には10年以上前から心配していたのですが、遂にもう回復出来ない所に来ているのでしょうか。
 生徒は大学進学に少しでも好都合な学校を選びます。
 辰野出身の私は諏訪清陵高校を目指して始めから親の熱心な教育を受けてきました。
 ここ数年は、恐らく辰野中学校からは上位の学力の生徒は伊那北高校に進学するでしょう。偏差値が明らかに諏訪清陵高校より上なのです。又、理数系のコースが出来ているそうですから、この学校の方が将来の進学にも有利です。
 私達同窓生は何か提案して立ち上がらなければ、諏訪・辰野からの優秀な生徒は松本深志高校、伊那北高校、山梨県甲陵高校を選択します。
 諏訪清陵高校は平成26年4月から中高一貫校の中学校を創設するそうですが
当面の学校の凋落及び停滞は今後短くも10年間は続くはずです。中学生は卒業までに6年間を要します。
 待てません。対策は早く打つべきです。有志が出資して
予備校の講師を学校に送るとか、予備校の学力テストを
高校生に受験させるとか、具体的に何かをしないともう終わってしまいます。
 諏訪清陵高校に入学すればこんな良い勉強が出来る、将来の人生に役立つとの具体的なものが無ければ、単なる自由な校風だけの学校になってしまいます。
 私は、東京清陵会の事務局のみ引き受けることになりましたが、ただ、ただ母校の停滞に歯止めをかけたいのが私のここ数年間の願いです。
 私の担任だった小田切光威先生は当時数学を教えていましたが、「自分の数学の授業は日比谷高校の授業に負けていない」といつも私達を励ます授業をして下さいました。(日比谷高校は戦後東大合格者が16年間、常にトップでした)三角定規を持って教室に入る先生のお姿が忘れられません。後年、校長として諏訪清陵高校に戻られて新校舎の建設で苦労され、定年と同時位に病に倒れましたが、諏訪日赤病院に御見舞いに行きました。昨日の事のようです。先生の恩にも何とかこたえたいと思います。
 有志は力を結集しましょう。
 庭に咲いた花です。
 先日も車窓から天文ドームの有る母校校舎を眺め涙が溢れました。「諏訪地方の産業の海外移転」が根底に有るのでしょうが。
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諏訪清陵高校の学生の皆様 2012/7/11(Wed)
諏訪清陵高校の学生の皆様
 私、小林国利は平成24年1月から東京清陵会の事務局を
お引受けして電話も引きました。私は辰野町出身です。
 今日この文京の地で会計事務所を開いているのも多くの方の、今日までのご支援によるものです。
 特に諏訪清陵・清水が丘での学んだことが、特に役立ってきました。常に感謝しています。
 母校の為に少しでも恩返しが出来れば、ささやかですが、嬉しく思います。
 私が清陵高校在学中は何故か理科系が花形で優秀な人は
理工系に進みましたが、私は大学に入学してから公認会計士という職業があることを知りました。今は大変な時代ですが、これから益々必要な職業です。是非ともこの職業に興味を持って頂きたい。

 近頃は、パソコンの発達により、あらゆる場所でパソコンが使用されますので、どうしてもパソコンに慣れることが大切なことだと思います。
 本年3月に突然従業員が退職する事になり、新しい従業員を採用して業務を覚えて頂くのに随分私にも負担がかかりました。
 このような事態が二度と勃発しないためにも、従業員に働きやすい環境を整えると共に、パート又は不定期でも
 事務所の繁忙期に助けていただける協力者をバックに
控えさせて置くことがどんなにか大切なことで有ります。
 学生であるが、バイトをしたい方は週1回でも良いので
当事務所に出勤して頂き、パソコンの入力等お手伝いして頂ける人がおりましたら、お電話を下さい。求職中の方も大歓迎です。
 何時でも御相談に乗ります。
将来、会計士とか税理士を目指したい方はなお嬉しい事です。
 諏訪清陵高校の卒業生と限定しませんので、どなたでもお電話を下さい。
 庭に咲いた春の花です。
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