思えば昭和12年それまで長男で育った父は伊那富の実家の跡を継ぎ農耕用牛を飼い、農業の相続人になろうと頑張っていました。山を開墾して作付け面積を増やしたり、若くて村の先頭に立ち働いたのです。上伊那農業高校の出身であり、農業の若手としてバリバリ新規事業等を考えたのでした。母も一生懸命協力しました。 しかし、父にも苦難がやって来ました。盧溝橋爆破事件に始まる支那事変勃発にともない招集令状が(赤紙)来て中国の河北省・石家荘に出征しました。 最前線で部隊を指揮したため中国兵に狙撃されて肩と足に貫通銃創の負傷を負いました。 内地に帰還して治療に当たり,温泉療法が効果あると言い、温泉に療養に行ったようです。 このまま、寒い信州で農業も出来なければ生活が出来ないと言って松本連隊にお願いし、東京板橋の軍需工場に寮の管理人として勤める事になり、祖父母を実家に残し全員東京に移りました。 軍需工場には外国人等多数の工員さんが宿泊していましたが、負傷した父に勤務地が見つかり私達家族はほんとに良かったと思います。 昭和19年東京の空襲が激しくなり、家族八名は信州の伊那富の実家に疎開することになりました。 私と直ぐ下の弟は東京の生まれです。 東京に暮した6年間が後に判った事ですが、子供の教育には良いことであったようです。 私達子供達は母と信州に帰りましたが、父は山梨の温泉療養中で二度目の招集令状(赤紙)が来ました。 私は四歳で父の顔も覚えていませんが、父は再びインドネシアのスマトラ島へ輸送船に乗り出征しました。 昭和21年5月父は突然復員船でレンバン島の捕虜生活から解放され帰ってきました。土産はアルミの弁当箱と帽子だけでした。。 父の戦地での生活の折、私の記憶では四歳半の子供に母が毎晩聞くことがありました。「お父ちゃんは元気で帰ってくるかね。」何百回と繰り返し私の耳元でささやく母の声です。私は「元気で帰えるよ、間違いないよ。」といつも答えました。「どうしてそんなに聞くの」ある時母に聞くと「子供の言う事は当たるからね」母は真剣に答えました。 第3番 さよならさよなら 椰子(やし)の島 お舟にゆられて 帰られる ああ 父さんよ御無事(ごぶじ)でと 今夜も 母さんと 祈ります
齋藤信夫作詩 海沼実作曲の「里の秋」はまさに戦地のお父さんの帰りを待つ、妻と子供のせつない心の歌です。 昭和20年12月24日第一回の復員船が横須賀港に入港のその日にNHKラジオ放送で川田正子さんが初めて歌ったそうですが、全国からNHKに問い合わせが殺到したそうです。何度聞いてもこの曲は涙が出ます。 戦時中作詩した3番及び4番を齋藤信夫はこの日に漸く3番に書き換えてNHKに届けたそうです。前の詩は戦争に協力する歌詞だったのです。(齋藤信夫は千葉県の教師でした) 題名も「星月夜」から「里の秋」へと変わりました。
私の母は隣村の川岸村からお嫁に来ました。父が川岸の青年学校の教師だから縁が出来たそうです。 今でも母に感謝する事があります。母は毎日気分良いと諏訪清陵高校の校歌を歌って子供達に聞かせました。(日本一長い校歌で有名)農作業の合間にです。第T高等学校、第三高等学校寮歌も良く聞きました。 「高校生になったら諏訪の学校に行くんだよ、それには勉強しないと駄目なのよ。」 「一番にならないと諏訪の高校へは行けません。」大きな諏訪湖を一度も見たことのない小さな子供達に第1校歌から第2校歌まで全部歌い聞かせます。 私の兄弟は全員が何時覚えたのか知らないが、この母の「校歌斉唱」のお蔭で諏訪清陵に入学出来ました。 時代は移り、諏訪清陵の校歌も歌えない後輩がいるそうですが残念です。 私達の辰野中学校は交通の便が良かったのか、伊那北高校、松本深志高校にも進学しました。 辰野中学校の生徒が一番進学したい高校は諏訪清陵となるように六十年前の構図に早く戻ってほしい。 私達が協力できる事は後輩の為、諏訪清陵高校の為に積極的に協力したいものです。私の大きな夢です。
「akoの革工芸」と検索して家内の作品ご高覧願います。 |